現実と虚構-オタクと現場の話

 

ジャニアイについて考えてみた文です。

舞台や芸術についての講義を踏まえて書いたものなので、なんのこっちゃ?って流れの文もあるかと思います。

現実と虚構とオタクと現場の関係性についての話。

 

 

 講義で「人工の楽園」と聞いた時、私はライブが頭に思い浮かんだ。コンサートや舞台を鑑賞する機会が多いのだが、その場に踏み込むたび、そのコンサート会場や劇場などが人々の期待と高揚感で渦巻く不思議な場だと感じていた。それはまさに「人工の楽園」と言えるのではないだろうかと考えたのである。そこで今回はコンサート会場や劇場という人口の楽園は自然化されたトポスになりうるのか、ということを考える。

 先に結論を述べると、自然化されたトポスにはなり得ない、と考える。

 そもそも何故人口の楽園としてコンサート会場や劇場を挙げたのかについて少し説明していきたい。先日「JOHNNYS’ALL STARS ISLAND」というジャニーズの舞台を帝国劇場で観劇し特に前述のような思いを感じた。他ジャンルの舞台やライブにも足を運んだことがあるが、やはりアイドル・ジャニーズの会場では、周りのファンを観察していると”高揚感”や”浮遊感”が特に色濃く感じる。この日の為に仕事や学校を頑張ってきた、この日のために遠方から足を運んできた、というような特別な思いが凝縮されて渦巻いている。こういった感情を持つのは一重に”好きなアイドルを生で見れる”ということ、そのことが”非日常”で”特別”だからであると考える。宝塚なども同様であろう。チケットはまさに楽園への入り口である。

 そして特に「JOHNNYS’ALL STARS ISLAND」という舞台は自然化されたトポスについて考えさせられる舞台であった。あらすじは、ナタリーより引用すると、東京のとある劇場を舞台に、ショービジネスの世界でスターになることを夢見る若者たちが、挫折や葛藤を繰り返しながらも、“SHOW MUST GO ON”の精神で希望に立ち向かうという物語である。この物語の中にそれぞれのグループがパフォーマンスをすることはもちろん、アクロバット東京五輪を再現したり、客席の上に球体を吊るしてその中で回転したりと色々な要素が詰め込まれている。

中でも、途中メインキャストの二人が苦悩を吐露するシーンがあるのだが、それぞれ現実で起きている実父の死と母の闘病を反映させた台詞が盛り込まれている。役名もそれぞれ実名(兼芸名)の下の名前であり、かなり虚構と現実の境が曖昧になっている。作・演出を手がけたジャニー社長は「物語というより、ドキュメントのような舞台。事実の重みが、きっとお客様にも大きな勇気を与える。事実は小説よりも奇なり」とコメントしており、芸は虚構と現実の間に存在する、ということを反映しているように読み取ることができる。

 また物語の中で様々なパフォーマンスをする、という性質上突然あるセリフから場面が切り替わっていく。平田オリザ著『演劇のことば』第6章では能や歌舞伎のような伝統演劇における発語の根拠を考えた際、「歴史」になるかもしれない、と答え、伝統芸能の継承者は、二、三歳の頃から理屈抜きに手の上げ下げ、足の運びなどを叩き込まれる。彼らに「心理だ」などといっても意味がない。ここでは「六百年続いてきたのだから」ということが、根拠となる。その長い間に有効でない表現は淘汰され、生き残り、型となったのだから一代で勝手に変えることは難しいと述べている。

ジャニーズの内部舞台も六百年の歴史があるわけではもちろんないが、数年〜十年ほど続いているものが多くこの色が濃い。客席から見ていて違和感を覚えるような演出も、素人から事務所によって数年で育て上げられた演者達にとっては”自然”なことであるのではないか。

 一方、観劇しているファンが観ているのは舞台の内容ばかりではない。好きな出演者自体の成長や活躍である。石井達郎著『アクロバットとダンス』でこんな記述がある。クロバットやダンスは、色々な身体の技法の中でも、特に「限界」や「境界」という壁を破ったり、超えることを期待される。ほんの小さな可能性に一縷の望みを抱いて、いつも先を見ている者が、いままで手の届かなかった領域に手を触れ、そこに一歩踏み出すことができ、思わぬ世界が切り開かれる。観劇している者はまさにこの限界を超える彼らを見て見たい、その場に立ち会いたいという思いが潜在的にあるのではないかと考える。

 このように劇場という人口楽園に立ち入る際、人々は様々な期待や感情を持ち込んでいる。舞台を観にいく、ということ自体が大多数の人にとって非日常であり特別なことであるからである。しかしながら、制作側は現実を介入させることで、現実と虚構の境を曖昧にしている。そして演者にとっては、特にこのような二ヶ月という長期に渡る舞台では、だんだんと舞台に出演することが自然なことになっていくのではないかと考える。よって舞台周りの関係者にとっては、舞台は自然化されたトポスになりうる。が、舞台は観客あってこそ成り立つものである。劇場という規模で考えた時、圧倒的母数を占める観客がそれを”自然化されたトポス”とは捉えない。またそう捉えることができてしまった時、同時にそれを楽園だと思うことはない。逆に、”自然化されたトポス”だと考えることができる舞台周りの関係者にとっては楽園ではない。このような二律背反性から、劇場は”自然化されたトポス”にはなり得ないと結論づける。

 

 

 

2017.8.6追記

以前チキってプライベッターで公開してた文をわざわざ上げ直したかというと、サマパラの風磨もこれを強く感じたから。

ネタバレになってしまうけど、今年の風磨くんのエモエモコンサートの設定は風磨は10年前の12歳で死んじゃって、かつての幼馴染の6人つまりSixTONESと1日だけ22歳になった自分として過ごせる、というもの。

去年までは風磨とバックの子たちはごちゃまぜというか境目が薄かったように感じたけど、今回初めてSixTONESっていうユニットがつくことで、さらにセクゾへの構えも風磨くんは明らかに変わったのもあって、より風磨-バックのコントラストが強くなったように思えて。

そのコントラストが、死んじゃった風磨と今を生きている6人ていう設定にうまくハマっていて、より一層その設定の説得力を強めているなあと一オタクは思いました。

 

 

あんまし上手く書けなかったけどとにかく

風磨くんSixTONESをつけてくれてありがとうざいまーーーす!

ってことです